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特集:身勝手な怒り と 妥当な怒り(布教しない仏教マガジン『 i 』2021_冬号)

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*こちらはダウンロード商品です。 布教しない仏教マガジン『 i 』vol.13 特集:『身勝手な怒り と 妥当な怒り』  怒りには、強者の口から叫ばれるものと、弱者の口から訴えられるものがある。  以前、旅先で友達と昼食のためにとある飲食店に入った。僕らの他に客は誰もおらず、店内には40歳くらいのハキハキした男性と70代半ばくらいの男性が厨房に立っていただけだった。てきとうに注文を済ませ、いざ食べようとしたそのとき、厨房から怒鳴り声が聞こえてきた。 「だから違うって言ってるじゃないですか! 何回言ったら分かるんですか!」  どうやらハキハキした男性が食堂の店主らしく、高齢の男性はアルバイトのようだった。見たところ年配の男性が、作り方を間違えて食材を無駄にしてしまったらしい。僕たちが店内にいるのもお構いなく、かなり厳しい口調で詰めている。申し訳なさそうに背中を丸めている年配の男性の姿が不憫に思えた。  部下に対して怒鳴り声を上げたり人前で過度に叱責する行為はパワハラにあたる。たとえどんな理由があったとしても、他人の尊厳を傷つけていいことにはならない。今、組織や上司に求められているのは、怒りを上手にコントロールすることと、怒らなくてもいいような仕組み作りに勤しむことである。  昨今ネット上のコミュニケーションが増え、SNSを開けば誰かが誰かを批難している場面が目に映る。家族や上司に対する愚痴から政治への憤りまで、怒りの矛先は実にさまざまである。もちろん内容も多種多様で、なかには「その怒りはさすがに身勝手すぎやしないだろうか」と思わず突っ込みたくなるような投稿もある。しかし、中でも気になるのは、不当な差別や暴力によって理不尽を強いられている人たちの痛切な訴えだ。以前、親からの暴力を何年にも渡って受け続けてきた者の悲痛な訴えを目にしたことがある。その者が発した「早く死んで欲しい」という言葉に滲んだ怒りとやりきれない思いが頭から離れない。  強者は怒りによって相手をコントロールしようとする。対して、弱者にとっての怒りとは、強者に対する切実な主張であり、告発である。一口に怒りと言っても、その性質はまったく違うのだ。だからこそ、今回私たちは「怒り」という感情にスポットライトを当ようと考えた。身勝手な怒りを振りかざす強者をきちんと批判し、痛切な怒りを訴える弱者にそっと寄り添えるように。  だが、何かがひっかかる。あの店主の姿がふいに脳裏に浮かぶのだ。客前で怒りを隠さなかったあの店主は、本当に強者なんだろうか。たまたま私の目に強者として映っただけではないのか。  私という人間が何者なのかは、置かれた状況いかんによってどうとでも変わりうるものである。強者も弱者も私たちの実存ではない。  そもそも私たちは、膨大な文脈と物語の上を生きている。目の前の相手がどのような人生を歩んできたのかを、私たちは簡単に理解することはできないし、他人の怒りを「しょうもない怒りだ」などと勝手に見積もってはならない。  もちろん他人の尊厳を傷つけるような怒りには断固として反対する。あの店主の態度は許されない。だがときどき私は、自分の怒りが身勝手なものなのか、はたまた妥当なものなのか、その判断に自信が持てないことがある。  怒りに駆られたとき。怒りの矛先を向けられたとき。他人の怒りを目にしたとき。私たちは、その怒りをどう受け止め、どう向き合えばいいのだろうか。怒りという感情を通じて、私という存在と対峙する。そんな特集をお届けします。(編集部:小西慶信) (目次) ▶︎寄稿   怒りが暴力を振るわせるのか     ― 感情を生起させる「憎悪・嫌悪」の構図とアンガーマネジメントの乗りこえ ―(立命館大学教授:中村正)   わたしを嫌う人がいるのはあたりまえ(牧師:沼田和也)   怒りはなぜ必要か?(編集部:私道かぴ) ▶︎連載   私道かぴの日々人其々 ▶︎企画   世界でみんなが怒っている    怒りの手引書   読書日和 

特集:身勝手な怒り と 妥当な怒り(布教しない仏教マガジン『 i 』2021_冬号)
*こちらはダウンロード商品です。 布教しない仏教マガジン『 i 』vol.13 特集:『身勝手な怒り と 妥当な怒り』  怒りには、強者の口から叫ばれるものと、弱者の口から訴えられるものがある。  以前、旅先で友達と昼食のためにとある飲食店に入った。僕らの他に客は誰もおらず、店内には40歳くらいのハキハキした男性と70代半ばくらいの男性が厨房に立っていただけだった。てきとうに注文を済ませ、いざ食べようとしたそのとき、厨房から怒鳴り声が聞こえてきた。 「だから違うって言ってるじゃないですか! 何回言ったら分かるんですか!」  どうやらハキハキした男性が食堂の店主らしく、高齢の男性はアルバイトのようだった。見たところ年配の男性が、作り方を間違えて食材を無駄にしてしまったらしい。僕たちが店内にいるのもお構いなく、かなり厳しい口調で詰めている。申し訳なさそうに背中を丸めている年配の男性の姿が不憫に思えた。  部下に対して怒鳴り声を上げたり人前で過度に叱責する行為はパワハラにあたる。たとえどんな理由があったとしても、他人の尊厳を傷つけていいことにはならない。今、組織や上司に求められているのは、怒りを上手にコントロールすることと、怒らなくてもいいような仕組み作りに勤しむことである。  昨今ネット上のコミュニケーションが増え、SNSを開けば誰かが誰かを批難している場面が目に映る。家族や上司に対する愚痴から政治への憤りまで、怒りの矛先は実にさまざまである。もちろん内容も多種多様で、なかには「その怒りはさすがに身勝手すぎやしないだろうか」と思わず突っ込みたくなるような投稿もある。しかし、中でも気になるのは、不当な差別や暴力によって理不尽を強いられている人たちの痛切な訴えだ。以前、親からの暴力を何年にも渡って受け続けてきた者の悲痛な訴えを目にしたことがある。その者が発した「早く死んで欲しい」という言葉に滲んだ怒りとやりきれない思いが頭から離れない。  強者は怒りによって相手をコントロールしようとする。対して、弱者にとっての怒りとは、強者に対する切実な主張であり、告発である。一口に怒りと言っても、その性質はまったく違うのだ。だからこそ、今回私たちは「怒り」という感情にスポットライトを当ようと考えた。身勝手な怒りを振りかざす強者をきちんと批判し、痛切な怒りを訴える弱者にそっと寄り添えるように。  だが、何かがひっかかる。あの店主の姿がふいに脳裏に浮かぶのだ。客前で怒りを隠さなかったあの店主は、本当に強者なんだろうか。たまたま私の目に強者として映っただけではないのか。  私という人間が何者なのかは、置かれた状況いかんによってどうとでも変わりうるものである。強者も弱者も私たちの実存ではない。  そもそも私たちは、膨大な文脈と物語の上を生きている。目の前の相手がどのような人生を歩んできたのかを、私たちは簡単に理解することはできないし、他人の怒りを「しょうもない怒りだ」などと勝手に見積もってはならない。  もちろん他人の尊厳を傷つけるような怒りには断固として反対する。あの店主の態度は許されない。だがときどき私は、自分の怒りが身勝手なものなのか、はたまた妥当なものなのか、その判断に自信が持てないことがある。  怒りに駆られたとき。怒りの矛先を向けられたとき。他人の怒りを目にしたとき。私たちは、その怒りをどう受け止め、どう向き合えばいいのだろうか。怒りという感情を通じて、私という存在と対峙する。そんな特集をお届けします。(編集部:小西慶信) (目次) ▶︎寄稿   怒りが暴力を振るわせるのか     ― 感情を生起させる「憎悪・嫌悪」の構図とアンガーマネジメントの乗りこえ ―(立命館大学教授:中村正)   わたしを嫌う人がいるのはあたりまえ(牧師:沼田和也)   怒りはなぜ必要か?(編集部:私道かぴ) ▶︎連載   私道かぴの日々人其々 ▶︎企画   世界でみんなが怒っている    怒りの手引書   読書日和